【書評】村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」 人生の解釈力を広げるための傑作

人生は一つの壮大なストーリーだ。
すべての出来事は有機的に繋がっている。
否、断片的なものがパチンッと音を立てて繋がる瞬間が必ずある。
人生に無駄なことは何一つない。

「繋がる瞬間」のために生きている

これを真に理解できている人はどのくらいいるのだろうか?
僕も現時点で、真に理解できているとは言えないのかもしれない。
ただ、僕には少なからず、断片的な点が線になった瞬間を経験したことがある。

そのときの感動はなかなか言葉になるものではない。
「うおおおおお。あのときの経験が繋がった…!」
「うおおおおお」という擬音はイケてない。気にしないでほしい(笑

なにはともあれ、この「繋がる瞬間」のために人生はあると言っても過言ではない。予定調和ということもできそうだが、ライプニッツに叱られたくないのでやめておく。

オセロの法則と繋がる瞬間

オセロの法則というものがある
人生には良いことも悪いことも起きる。
それぞれは、そのときごとの断片的なものだ。
悪いと思えることを「黒」
良いと思えることを「白」
としよう。
オセロをイメージしてもらえばわかると思うが、
どんなに黒が続いていても、端に白があれば、すべて白に反転する。
これを人生に置き換えると?
どんなに悪いことが続いていたとしても、生まれてくるときと死ぬときに「生まれてきて良かった」と思えれば、それで人生すべてが「白」で終わる。

つまり、人生は死ぬときに「生まれてきて良かった」と思えるかどうか。
逆に、「生まれてこなければよかった」と思って死んだとしたら、過程はどうあれ、「黒」の人生となってしまう。

これは、人生の途中でも同じことだ。
どれだけ、悪いことが続いていたとしても、
「繋がる」瞬間に出会い、「黒」を「白」に反転させることができる。

要は、人生は解釈できまる。
一見悪いことも、長い目で見ればプラスであることが多い。
例えば、僕は中学のときに鬼のような先生にであい、毎日のように泣かされていた。
毎日毎日、怒鳴られる日々。厳しい練習。
そんな日々の中で嫌気がさすことも何度もあった。
しかしあの当時鍛えられていなければ、今の自分はなかった。

当時はとても苦しかったし、明らかに「黒」としか思えないときもあった。
しかし、今思えばとても幸せな時間を過ごしていたと思うし、「白」の思い出として残っている。

「黒」と「白」はいつでも反転可能なのだ。

「多崎つくる」について

クロとシロといえば、
最近は「多崎つくる」を読んだ。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

 


この小説の中でも、
オセロの法則を彷彿とさせる一節があった。

「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく苛酷な目にあわされたと思い続けてきた。
そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損ってきたと。
正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。
でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」

オセロの法則というか、この場面でつくるの解釈が変わっている。
完全に「黒」だったものが「グレー」になっているというか。

まだ「多崎つくる」は昇華しきれていないので、荒削りだが取り急ぎこんなものだろうか。