ヴィクトール・フランクルとフリードリヒ・ニーチェ

ニーチェ「神は死んだ」←何言ってだこいつ

前回の記事で、

フランクルの「それでも人生にイエスと言う」

を取り上げた。

 

フランクルと似た思想を持った人物と言えば、

ニーチェだと僕は勝手に思っている。

 

世界に意味があるのか?

という問いに対しての答えを示しているという点において、

この二人の哲学者の思想は、重要だと思っている。

 

僕はどちらの思想も好きだ。

優劣をつける必要はないと思う。

それでも、二人を比較してみると、

世界の見方が変わってくると思う。

 

まずはニーチェから。

 

ニーチェの重要な思想と言えば、

「永劫回帰」があげられる。

代表作である、「ツアラトゥストラかく語りき」で出てくる思想だ。

永劫回帰とは、永遠に同じ円環のストーリーを繰り返しているという考え方だ。

だから、人生は無意味である。と考えるのがニーチェ。

一切はこわれ、一切は新たにつなぎ合わされる。

存在という同一の家は永遠に再建される。

一切は別れあい、一切はふたたび会う。

存在の円環は、永遠に忠実におのれのありかたをまもっている。

 

中公文庫「ツアラトゥストラ」490頁

ニーチェの考え方を僕は、積極的ニヒリズムと勝手に名付けて、

そう呼んでいるのだけれど、

まさに積極的にニヒリズムに飛び込んでいく思想が、永劫回帰なのだ。

 

つまり、人生は、すべて円環の中で起こっていることに過ぎない。

言ってしまえば、前世と同じことを繰り返しているだけの人生だと。

人生は虚無に満ちている。まずはそれに絶望するべきだと。

 

そして絶望し、永劫回帰を認め、積極的にニヒリズムに飛び込みながら、

目の前の一瞬一瞬に命を賭して、力強く生きよ!

というのが、ニーチェの言いたいことだと僕は思っている。

その絶望の中を生きる強さを持った人間のことをニーチェは超人と呼び、

超人として生きるのか、末人として生きるのか、を問うていた。

 

これはこれで面白い考え方だなと思う。

 

では、フランクルの場合はどうか。

人生に意味はあるのか、

世界に意味はあるのか、

この問いに対する答えは、

自らが決断するものなのだ、

という考え方だ。

 

つまり、人生、世界は無意味だと決断することもできるし、

人生や世界には意味ということをとらえることができないほどの意味(超意味)を持っていると決断することもできるということだ。

 

世界に意味はあるのか?

という問いへの答えを出すときに、

僕たちはどう頑張っても根拠を持ちえない。

根拠を持ちえないということは、

決断しているということだ。

 

答えを導いているのではなく、

自ら答えを決断している。

 

だからこそ、人間の意志が重要で、

世界に意味があるという決断、意志を持つことはだれでもできる、

と説くのがフランクルなのだ。

 

新劇場版のエヴァの最終的な結論は、

実はフランクルの考え方だと僕は思っている。

旧劇場版やアニメ版は、ニーチェに近い。

 

これについては、また機会を改めて書くことにしようと思う。

現代に生きる思想として、

フランクルとニーチェは、非常に重要だと個人的に思っている。