落ち込んだ時、
以前は、
すごい!その通りだ!
と感動した言葉でさえ、それは気休めにしか思えない。渦中にいるときには、どんな励ましの言葉であっても、気休めにしかならない。
あんなに感動したフランクフルの言葉でさえ、死ぬほど苦しんでるときには、なんの役にも立たん。
どんなに人生の真理であったとしても、どんなにそれが正論であったとしても、気休めにしかならん。
でもその、気休めにしかならん、は、気休めを超えて、実体験をともなった血の通った自分だけの教訓にしていくための通過儀礼みたいなものでもあるのかもしれん。
先達からは気休めを学んでいるだけだ。気休めを超えろ。気休めを教訓に。