他人を通して、トラウマを想起する。

実を言うと、最近、傷ついていた。

傷ついたというのは、大げさな気もするけれど、小さな傷が積み重なって、深くなっていたような感じだ。

小さな違和感も、小さな傷も積み重なれば、それなりに大きなものになる。

別に一つ一つは取るに足らないものなのだ。本当に。大したことのないこと。

それなのに、積もり積もっていくと、鬱屈してくる。

その鬱屈は、やがて自分のトラウマを想起させるようにる。

そうなるとやっかいで、トラウマが強烈であればあるほど、恨みみたいな感情が出てきてしまう。

僕にとっては、かなり強烈なトラウマが想起された。

嫌われる勇気という本の中では、トラウマは存在しないと説いているが、

それは、ある意味において、という話で、ほかのある意味においては、トラウマは存在する。

 

嫌われる勇気の中で言いたいのは、言い訳してるうちは暇人だと言いたいのだ。

トラウマという言い訳を作り出し、行動することをやめているのは、怠慢だと。

 

それは一理ある。正しいし正論だ。

 

だからといって、人間、生きていれば、鬱屈した感情を抱えることだってある。

そんなときには、トラウマは想起されるし、簡単に言えばしんどいことだ。

 

今回書きたいのは、別に今関わっている人が悪いわけでもないのに、悪者にしてしまう自分もいるということだ。

単に、ちょっとしたモヤモヤが積もったときに、嫌な感情が出てくる。

それだけのことなのに、ある閾値を超えたところで、トラウマが想起されてしまうのだ。

その結果として、目の前にいる、近くにいる現在モヤモヤさせてくる人を悪者に仕立て上げてしまう。

 

よくないことだよなと思いつつ、根本的には、そのトラウマを鎮魂しない限りは解決しようもないから、どうすることもできず、また、モヤモヤする。

 

そのトラウマをいかに鎮魂すべきか、それについて考える。

まあ、大抵の場合、こういう根本的な部分でのトラウマは家族、とくに親が関係していることが多いはずだ。

一番最初に経験する歪んだ社会であり、一番難しい人間関係が親子というものだ。

親子問題で、全く問題がない家庭など存在しないのかもしれない。何かしらの歪みを抱えていると思う。

親に抱えるネガティブな感情と折り合いをつけて、なんとか許せるようになるしかない。

 

折り合いをつける、和解する、

あれが本当は嫌だったと伝える、

あれはめちゃくちゃ傷ついたと伝える、

 

伝えるということが大事なのかもしれない。

別に伝えることで何か決定的に変わるわけではないし、何かが新しく生み出されるわけでもない。

でも、ちゃんと言いたいことを言う、言えていなかったけど、本当は言いたかったことを口に出すっていうのは、案外重要なことだ。

 

うまくまとまらないけれど、

人は他人を通して、過去のトラウマを想起してしまうものだ。

だけど、本当は、今、現在関わっている人を悪者に仕立て上げるのは間違っているし、本来はその人は悪者じゃない。

だからこそ、根本的に抱えてしまった鎮魂されないトラウマを、いかに鎮魂するか、っていうことが大事で、そのためには、伝えるということ、口に出すということが一つの解決策になるんじゃないかなと思った。相手が存命の場合に限るが。

 

そんな感じです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!🖐️